この下記の解説も私は全く共感する。私の人生観みたいなものがあるとすれば、
それは下記の山本健吉の文章で完璧に表現されていて、一言も補足する言葉はない。
以下、その解説。
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自分の寂しさ、悲しさ、はかなさをことさら強調するのが、感傷である。
だが超空においては、それは自分一個に止まらず、人間一般、存在一般につながる
普遍的な感情となる。寂寥の感がこのような人間普遍の感情にまで広がるとき、
超空はその作者に聡明さを見る。彼が万葉歌人の黒人や家持に認めたのは、
この種の聡明さだった。
ことだった。黒人の羇旅(きりょ)歌の価値の顕彰者は超空である。
それは旅における深い自然観照に裏打ちされた孤独感や不安や寂寥感が
にじみ出ていて、そこに人間の普遍なるものへの認識が芽生えてくるのである。
例を挙げよう。
何処(いづく)にか船泊(ふなは)てすらむ 安礼(あれ)の崎
漕ぎ回(た)み行きし 棚無小舟(たななしをぶね) (万葉集巻一、五八)
旅にしてもの恋(こひ)しきに やましたの
朱(あけ)の赭船(そほぶね) 沖に漕ぐ見ゆ (同巻三、ニ七〇)
(注:「赭船」とは赤い色の土を塗った船のこと)
率(あども)ひて漕ぎ行く船は 高島の安曇(あど)の水門(みなと)に
泊(は)てにけむかも (同巻九、一七一八)
どれも旅先き、それも船旅において遭遇した、見も知らぬ船に、感慨を託した歌である。
自分の孤独な存在感が、相手の孤独な存在感に、同じ孤独さ、さびしさの底において
つながるのであって、このうち「何処にか」と「率ひて」とは、夜になって昼間の景色を
脳裏に再現した歌であろう。
その夜どこかの水門(みなと)に船がかりして、昼間すれ違ったあの船は、
どこかの水門に、夜泊の場所を得ただろうかと、気にかけているのだ。
人生のかりそめならぬ、だがかすかといえばかすかな、因縁を感じているのである。
超空の晩年の歌に、
那霸の江の さびしき泊まり舟どもの 浮べる浪は思ひがたしも
などとあるのも、はるか後になって、沖縄の夜泊の船のさびしさを頭に思い描こうと
している歌で、その根底には、黒人の歌に通ずる感情がたゆたっている。
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この私のブログので感想・連想は、所詮、山本健吉の解説の、言わば私流の「変奏曲」
に過ぎない。