2014年8月22日金曜日

69 夕空の さだまるものか・・・

夕空の さだまるものか。
   ひたぶるに
 霄()れゆく峰に、
むかひ 居にけり  

山中に
わが見る夢の
  あとなさよ。
覚めて思ふも
 かそかりけり

山中にさめ行く
 夢の
こゝろよき思ひに 沁みて、
 はかなきものあり。
             (釋超空)
-----------------------------------------------
作者の寂寥感を私もそれなりに分るようになったのは、
私も確実に歳を重ねた故でもあるのか。
作者の見た夢はどんな夢だったろうか。
もしかしたら、それは作者の寂寥感の隙間から遠くに見える春だったかも知れない。
私は作者のみた儚(はか)き夢を以下の詩に見よう。
---------------------------------
あはれ花びらながれ
をみなごに花びらながれ
をみなごしめやかに語らひあゆみ
うららかの跫音(あしおと)空にながれ
をりふしに瞳をあげて
翳りなきみ寺の春をすぎゆくなり
み寺の甍みどりにうるほひ
廂々に
風鐸のすがたしづかなれば
ひとりなる
わが身の影をあゆまする甃(いし)のうへ

                (三好達治)   

折口信夫 □診斷・日本人 4

折口信夫診斷・日本人
 折口信夫の生家は古く續ける生藥屋なりき。信夫誕生當時の家族は、兩親の他、曾祖母、祖母、二人の母方の叔母、姉、三人の兄にて、後に弟二人生まる。

「祖父は、飛鳥ニ坐ス神社の神官の子なりしが、折口家の養子となり、醫を本業とし、舊來の家業を兼ぬるも、差別なく部落民の治療に當り、その徳人より慕はれれたり。

父は壻養子として折口家に入り、祖父の跡を繼げるも、氣むつかしく、荒々しき氣性の人にて、晩年には患者を診ること少なかりし。

母はいはゆるお孃さん育ちにて、わがままなる人なりしが、父には痛々しく思はるゝ程よく仕へ、父の代診をつとむるなど、獨身なりし叔母二人と家業を切り廻したり。」(『母と子』) 恐らく信夫の父は、母系家族に對する一種の反逆兒にてはなからんかと想像せらる。

 信夫が幼年時代の資料極めて乏しけれども、『古代感愛集』に收められたる「幼き春」「乞丐(コツガイ)相」「追悲荒年歌」などの詩の中にうたはれし、幻想の織り込まれたる幼時の囘想を讀まんか、そが傷ましさ、想像を絶するものあり。「わが父にわれは厭はえ、我が母は我を(メグ)まず、兄姉と心を別きて、いとけなき我を(オフ)
ぬ」(「幼き春」)「父のみの父はいまさず、ははそばの母ぞかなしき。はらからの我と我が姉、日に夜に(コロ)ばえにけり」(「追悲荒年歌」)

斯くのごとき彼の不幸なる幼年時代を決定づけたるものは、幼時の一時を里子に出されたることなり。

里子に出されたる年齡、期間の詳細は明らかならざるも、このために幼年時代の信夫は母との對象關係斷ち切られたれば、我は見捨てられたりと感じ、母の影は遠くのもの、覺束なきものとなりたりと推測せらる。

 一方、父との對象關係も十分なるものにてはなく、當時「年と共に氣むつかしくなり、家人とも樂しげに話をかはすこともなく、母と顏をあはすことも嫌ひたり」(『母と子』) 父によりて彼の孤獨感の瘉されるべきすべもなかりし。

かへりて父は母を信夫より遠ざくるていの人物なれば、部落民を診察することを拒否し、祖父の里との交際を斷つといふがごとき父の粗暴なる行爲は、幼き信夫の心に消しさりがたき父への反感、憎惡を生み、彼の出生前に死亡したる祖父への止みがたきあこがれと幻想的なる同一視おこり、祖父を父批判のよりどころとする結果となりたるがごとし。

父に對する憎しみの激しきことは『近代悲傷集』の「すさのを」の詩篇からも容易にうかがひ知らる。

 幼年時代の信夫は、母代りの叔母えい、姉あいによりて育てられたるならん。殊に八歳年上の姉とは、互ひに孤獨なる魂を温め合ふかの如くに親密にて、近親相姦的關係に近かりしかと想像せらるる節さへ見ゆる。「わが御姉(ミアネ)、我を助けて、かき出でよ、汝が胸乳(ムナヂ)、あはれわれ、死ぬばかり、いと戀し、汝が生肌(イキハダ)」(「すさのを」)

晩年の『死者の書』におきても主人公大津皇子は、その刑死を萬葉集の中にてもつとも哀切なる同母姉大伯皇女への追慕によりて鎭魂せられたる皇子なり。折口の中將姫を登場させたるは韜晦にてはなからむか。

かくのごとき幼時の異常なる關係より自己の男性性との葛藤をおこし、去勢恐怖、さらには姉との同一化おこり、その結果異性愛が封じられ、これが後年の彼の女性恐怖、同性愛的傾向の發展につながるものと精神分析的に解釋釋すること可能なり。


 いづれにせよ幼年時代の信夫は、兩親よりいはば遺棄され、しかもそれを被虐的に自己に關係づけたれば、兩親との對象關係正常に發展せず、ために生に對する信頼感が弱く、生命否定的となり、男性としての十分なる性的同一性を確立することのできなかりしことは疑ひなき事實なればこれが彼の分裂氣質的人格の形成、恐怖症の發展を促し、同時に信夫を同性愛に導く要因となりたることは確實なり。

折口信夫 □診斷・日本人 3

折口信夫診斷・日本人
 
 晩年の信夫と起居を共にせる加藤守雄の『わが師折口信夫』、岡野弘彦の『折口信夫の晩年』を讀むに、信夫の人柄、日常生活には、われわれ精神科醫が興味そそらせらるる部分、少なからず。

 加藤は信夫の人間的印象につき次のごとく記す。

「一オクターブ高き聲、なで肩にて丸味ある體つき、いんぎんなる物腰、自己愛的、女性的なり」「氣性はげしく我が儘なる性格、惡意ある批評や自分を傷つけむとせる言論には痛烈に反撥、反應過敏にて被害者意識つよく、先生が怒りは、不當にいためつけられたる自我を囘復せむがための闘ひ」「電話のベルにて過敏に怖る。相手の正體のわかるまで安心できず」。

これらの記述より推察しうる信夫は、過敏、自己愛的、人間不信的、被害的傾向を有する分裂氣質に屬する人と言ひえむ。

 彼の日常生活にはかなりの奇行目につく。

その第一は極度に潔癖なることにて、書庫や部屋の埃を嫌ひ、他人の手が觸れたる襖、障子の把手は着物の袖にて摑み、電車の吊皮を持つときは手袋やハンチングを使ふなど直接自分の手にては觸れず(岡野)、フライパンをクレオソートにて消毒し、手に觸るるものはアルコール綿にて拭く(加藤)など、不潔恐怖の症状とも見られむ。

 第二は女性恐怖にて、恐らく此が第一の不潔恐怖の原型と考へ得るものにて、女性を不潔視し、身邊にはほとんど女性を近づけず、食事は女性に作らせず、妻帶者の弟子の入りたる風呂には入らず、電車、バスの中にて女性の髮の毛觸るれば、すさまじき嫌惡感を示せり(岡野)。信夫の恐怖覺えざる女性は、親族の他はおそらく身邊にありし老婢、あるいは「神の嫁」としての巫女的なる役割にとどまりをりたる女性ならむ。

 第三は饑餓恐怖とも稱せらるゝ一種の貯藏癖にて、戰爭末期より戰後にかけての時期、護符の如くに硼砂入りの四斗の米を貯へをりたり。他人より贈られたる果物などは腐敗せるものも捨てずにとりおきて、奇妙なる果實酒を作るなど致したり(岡野)

 第四は刺戟物に對する極端なる嗜好にて、三十種にも及ぶ茶を常備し、ジンジャーエール、コーヒーを好みたり。齒磨きは薄荷、樟腦、クレゾールなどを加へたる自家製のものを用ゐ、ロートエキスの錠劑を愛用し、息の詰らむばかりのユーカリ油をマスクに垂らすこともありたり。

子供の頃には樟腦を齧りしことありたると言ふ。その極點に當れるはコカインに對する嗜癖にて、大正末期より昭和初年にかけてはかなり濫用し、その結果晩年にはほとんど嗅覺失はれたり(岡野)因に彼が旅行の際には愛弟子の誰かを同行したる他、必ず數種の茶、胃腸藥、アルコール綿を携行したり(岡野)

 信夫の住居には「生活に對する熱意と秩序の微妙さ嚴しさ、隅々にまで行き屆きをり」、弟子達の立ち入れる領域、家婢の立ち入れる領域は竣別されゐたり。

便所にても先生用、家人用、客人用の三種あり、自分の肌着を他人に洗はすることなく、就寢後は寢室に他人を絶對に立ち入らせたることなし。彼には「痛烈に嚴しき孤獨なる世界と、いさぎよき程の自愛の世界ありき」(岡野)

かくの如き呪術的とも言へる手のこみたるやり方にて、不潔より身を守る庇護的にして、固有なる生活空間を辛うじて創り出したる生活様式は、不潔恐怖症の人間のそれとしての特徴を十分に示せるものと見得。

 弟子達の記述の中にて最も精彩を放てるのはすさまじきばかりの、師弟關係に關する部分なり。

師としての信夫には苛烈、呪縛的なる感染力ありて、弟子たちにとり先生の言葉はすべて啓示にして、先生の行爲はすべて典型と感ぜられ、先生と一緒なれば一種の痲痺状態に陷りたり。

信夫は弟子の生活のすべてを嚴しく律せざれば安心でき得ず、己のものと弟子のものとの區別つかざりき。

弟子は先生以外との交際を斷ち切られ、殊に異性に對する禁欲生活を強ひられ、心のゆるむ暇なかりき。先生は口移しにて弟子の講義を準備し、弟子の講義の代講を行ふ。

先生は自分の好みに從ひて弟子の髮の毛を五分刈りにし、近視ならねど眼鏡をかけさす。そして時には弟子(加藤)同性愛的行爲を求めたりせり。

しかれども、他の資料より推測するに、彼は性欲に對し嚴しき禁欲的なる自己抑制を課しをり、ゆゑに彼が同性愛は精神的なるものにて、肉體的なる行爲を求めたるは、おそらく晩年になりて自己抑制のゆるみたる時期のみと推測せらる。

 柳田國男や土岐善麿の、「折口君の所に長くゐると牝鷄になる」(柳田)とか、「折口さんのごとき天才に着いてゐたら君達の個性はなくなる」(土岐)と語りたるは、この間の事情を指しをるものなり。


斯くのごとく弟子に對して自他の區別を許さず、弟子を全的に一方的に支配し、自己の生活律により律せむとする態度は、分裂病者の子供に對する兩親の態度に類似しをりと言ひ得む。

折口信夫 □診斷・日本人 2

折口信夫診斷・日本人
 
 折口信夫は明治二十年、大阪に生まる。父は婿養子にて醫を本業とし、さらに家業の生薬屋を兼ぬ。

幼時一時大和小泉に里子に出され、木津小學校を經て明治三十二年に大阪府立第五中學に入學せり。明治三十五年五月(十六歳)父死亡す。

明治三十七年、卒業試驗に落ち、その前後に數囘の自殺企圖あり。

されど翌三十八年(十九歳)には同校を卒業し得たれど、醫科を學ばせむとする家人の意を斥け、國學院大學に入學、同四十三年、拔群の成績にて卒業するや、釋迢空の號を初めて用ゐる

同四十四年、大阪府立今宮中學の教員となる。翌年、生徒伊勢清志らと志摩、熊野に旅行す。大正二年(二十六歳)、この年創刊せられたる柳田國男の「郷土研究」に投稿。翌年、職を辭して上京、本郷の下宿昌平館にて中學の教へ子十人と共同生活を始むるも、間もなく經濟的に破綻して一時神經衰弱となる

翌四年、生徒の一人鈴木金太郎の下宿に身を寄せ、そのまま居つく。
彼とはその後二十一年間(昭和九年まで)同居することとなりたり。
 
 同年、柳田國男、島木赤彦に會ひたることから、「アララギ」に近づく。翌年、萬葉集口語譯完成。翌六年、私立郁文舘中學教員、「アララギ」同人となる。

夏、元の生徒伊勢を追ひ九州に旅行、無斷缺勤一ケ月のため馘となる。大正八年(三十三歳)、國學院大學臨時代理講師となる。西大久保に轉居。同十年夏、沖繩旅行、年末「アララギ」から遠ざかる。

翌年、國學院大學教授となる。年末、谷中に轉居、翌年、慶應義塾大學講師となる。大正十四年、處女歌集『海山のあひだ』出版。短歌結社「とりふね」を創り、生涯續くることとなる。昭和三年(四十二歳)慶大教授となり、大井出石に轉居、以後終生この地を離れず。この地にて藤井春洋(はるみ)と昭和十八年まで同居す。
 
 翌年『古代研究』を出版せることにより、折口學の内容を組織的、系統的に提示せることとなる。この頃コカインを濫用しながら、不眠不休にて仕事に勵む。昭和五年第二歌集『春のことぶれ』出版。

同七年『古代研究』により文學博士の學位授與せらるると共に、歌壇における地位も確立す。同十四年、『死者の書』上梓、翌年、國學院大學に民俗學講座を新設す

同十八年、藤井春洋應召出征し、加藤守雄との同居となる。翌年、春洋硫黄島へ移動、信夫は春洋を應召のまま養子に入籍せり。加藤名古屋へ逃走す。二十年、春洋硫黄島にて戰死。

二十一年、『近代悲傷集』出版。老婢矢野あや子、折口信夫の死に至るまで同居す。翌年、『古代感愛集』『日本文學發生序説』出版。岡野弘彦、昭和二十八年の師の死まで同居することとなる。二十三年、『古代感愛集』により藝術院賞受賞。春洋の墓石をえらび、墓碑銘を書く。


昭和二十七年、輕度の腦出血發作おこり、翌年(六十七歳)、胃癌のために死去す。以上が彼の傳記的事實の概要なり。

折口信夫 □診斷・日本人 1

注:以下の論文はインターネットで公開されていたもののコピペ。文章の中の文字の色は私が関心ある箇所のため色付けした。
------------------------------------------------------------

精神科医:いひだ しん 飯田眞
折口信夫診斷・日本人
 折口信夫は、過去半世紀の間に尤も個性的なる日本人の一人にて、釋超空と號したる、昭和歌壇の代表的なる歌人と言へると共に、民俗學、國文學の領域においても折口學と呼ばるる極めて獨創的なる學問體系を確立したる人物として知らる。

 本小論にては、手許に散在する幾つかの作品及び傳記的資料を參照しつつ精神病理學的視點より折口の人間像を素描せむとす。

 折口が内的世界を構成する重要なる部分は、詩歌、國學(民俗學、國文學)なれど、これらは獨立しては存在せず、互ひに關聯しあひて一つの神秘的なる結晶體を形成するがごとし。そのために折口の全體像を解明するにあたりては、折口が内的世界の構造的連關を探ることに大いなる手がかりが與へられむ。

 折口は短歌滅亡論を書きはしたれども短歌を捨つることなく、生涯にわたりて人間の孤獨、死、愛憎、悲傷をうたひつづけたり

折口にとりて詩歌とは、「自己の生命をみつむる詩人の感得」を表現する、生の基底音を奏づるものにて、内面の激せる情念を癒す鎭魂歌に他ならざりし。

折口が詩歌の本質は「優雅さ」「細み」にて、アララギのうたふ「ますらをぶり」に對する「たをやめぶり」なりと言はるるごとく、折口の自己愛より發する女性的なる世界にあらむ。

 一方、折口は從來の實證主義的なる國文學には激しく反逆し、「新しき気概の學」としての國學を模索しつづ.けたり。

「資料と實感と推感とが交錯して生まれくる論理をたどる」といふ獨自なる民俗學の方法によりて、古代文學究明の前提とすべき古代人の生活を再現し、古事記を讀み解くために古事記傳を書きたる本居宣長以來の國學の傳統を復興せり。折口にとりて國學とは、いはば自己の存立の基盤を支ふるものにて、強く激しき男性的なる世界なりき。

 また詩歌が日常的、意識的、現在的なる晝の世界に屬し、比較的直截に己の心情を吐露せるものといへるに對し、民俗學は無意識的、蒼古的なる夜の世界に屬し、折口が精神の深層の投影されたるごとくに見ゆ。

折口はコカインの助けを藉りつつ、詩人のもつ直觀力、幻視力を高め、一種の神がかりの寔態となり、民俗學的資料を媒介として己が魂を古代人の魂と自由に交感させ、自身が古代人になりきることによりて古代人の生活を再體驗し、獨自なる日本の古代像を創造せり。

作品の幾つかを讀まば(例へば『妣が國へ、常世へ』『貴種流離譚』など)折口が生み出したる日本の原像が、いかに強く折口の個性の刻印をうけ、折口の内面の幻想と深くかかはりゐるをみるべし。

師柳田国男の民俗學が合理的、歸納的、實證的であるのに對し、折口の民俗學は直觀的、實感的、非合理的にて實證性なしといはるる所以はここにあり。

 折口は社會的には學者たり、教師たり、また歌人たり。かかる折口にとり生の姿勢の確立したるは、慶大教授となり、大井出石に居を構へたる昭和三年(四十二才)頃にて、以後、終生、慶應大學と國學院大學にて國文學、民俗學を講ずると同時に、短歌結社「とりふね」を主催せり。


周圍に常に折口の人間的魅力に呪縛されたる愛弟子達を擁し、閉鎖的なる祕教團の教祖の如く彼らに無數ともいへる嚴しき戒律を課して全人的に訓育したり。折口は生涯獨身を貫きしが、ほとんど常に愛弟子の一人と起居を共にしゐたり。

(いひだ しん 精神科醫)

2014年8月16日土曜日

68 老いぬれば・・・

『老いぬれば心あわたゞしと言ふ言(こと)の、
            こころ深きに、我はなげきぬ』
***
『心あわたゞし』とはどういうことだろう。
それは人それぞれによって違うだろう。

私は? それをこんなところに書いても仕方がない。
ただ、それは擦り傷が沁み入るように徐々に深くなっていく。
それは『こころ深』いところへと侵食していくのだ。
作者は、どこで、なげいているのだろう。
どこ? それは誰も知らないし知りようがない。

To-morrow, and to-morrow,and to-morrow,
Creeps in this petty pace from day to day

To the last syllable of recorded time ・・・

67 木(みやまぎ)の冬のしげりの深き山・・・

(みやまぎ)の冬のしげりの深き山。
 たゞひと木ある花の かそけさ。 (釋超空)
***
今年は既に一ヶ月もない。(注:本記事は昨年暮れ書いたもの)
月日の流れを今年ほど速く感じた年はなかった。

春には花が咲いたことさえ知らずに過ごした。

夏は突然やってきて我が身を容赦なく焦がし、
そして、いつの間にか去ったのだが、
秋が来たことに私には気付かなかった。

窓から外を眺めたとき木々から葉が落ちていることを知り、
秋が去ったことを知ったのだった。

そして冬がきた。
まだ雪は降らないが、その予兆は既にある。

私の家の庭の木々には花はない。
窓から見える遠い山々には、花を静かに咲かして木があるらしい。

次に控えている年は、さらに速く過ぎていくのだろうか。
そのような気もする。

次ぎに控えている年は、せめて春には花を感じたいものだ。

一枚の枯葉が落ちていた。

綺麗な色をしていた。

その葉を傍(そば)の石の上に、そっと置いた。

誰のために? 

それは、かの人のために。
そして我が魂のために。