2014年8月13日水曜日

30 なき人の・・・

『 なき人の
  今日は、七日になりぬらむ。
    遭ふ人も
    あふ人も
  みな 旅人 』
***
私は一切の仏事に無関心な人間である。
いや遠慮なく白状すれば、一切の仏事に軽蔑さえしている人間である。

さらに言えば、仏事のみならず、一切の他の宗教的行事に遊戯以上の価値を認めない人間である。そう、私は、一切の宗教行事に、稚児の遊戯以上の価値を認めない。

宗教とは、畢竟、人類にとって極めて危険な火遊びである。
そして、私は宗教の偽善ほど「偽善」いう言葉に似つかわしいものは、この世にないと思っている。

それでは生きていることに淋しくはないかと問われたら・・・確かに、生きていることは淋しいとは私は思う。 しかし、その淋しさは、私における宗教の不在に拠るものでは決してない。私での宗教の不在は・・・むしろ、せいせいとした気分に私をさせる。

ここまで宗教を無定義に使ってきた。
ここで宗教もしくは宗教的雰囲気を下記のうたに限定させれば・・・私はその宗教の、まさに命がけの信奉者である。

そのうたとは、今迄何度も書いてきた『供養等』の連作である。
***
人も 馬も 道ゆきつかれ死にゝけり。旅寝かさなるほどの かそけさ 
                                   
道に死ぬる馬は、仏となりにけり。行くとどまらむ旅ならなくに    
                                   
(むら)山の松の木()むらに、日はあたり ひそけきかもよ。旅人の墓 
                                   
ひそかなる心をもりて、をはりけむ。命のきはに、言うこともなく   
                                     
ゆきつきて 道にたふるゝ生き物のかそけき墓は、草つゝみたり
***
この『供養等』こそが私の宗教である。その宗教がいかなる名前のものか、勿論、私は興味はない。 このコメントでの掲題のうたも、もちろん、『供養等』の変奏であることは言うまでもない。

PS.
こんなところに書くことではないが、数年前、私はある住職と喧嘩した。
私に言わせれば、この住職(に代表される仏教界)の金銭的強欲に、流石に温厚な私も激怒した。私は即改葬の処置をとった。


そして、私は死後ある大学病院へ献体する契約をし、医学生諸君へ献体後、遺体はその大学病院の共同墓地へ「永代供養」することになっている。このことは、私の宗教の必然的成り行きである。この行為は、私において『供養等』となんら矛盾しない。