2014年8月22日金曜日

69 夕空の さだまるものか・・・

夕空の さだまるものか。
   ひたぶるに
 霄()れゆく峰に、
むかひ 居にけり  

山中に
わが見る夢の
  あとなさよ。
覚めて思ふも
 かそかりけり

山中にさめ行く
 夢の
こゝろよき思ひに 沁みて、
 はかなきものあり。
             (釋超空)
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作者の寂寥感を私もそれなりに分るようになったのは、
私も確実に歳を重ねた故でもあるのか。
作者の見た夢はどんな夢だったろうか。
もしかしたら、それは作者の寂寥感の隙間から遠くに見える春だったかも知れない。
私は作者のみた儚(はか)き夢を以下の詩に見よう。
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あはれ花びらながれ
をみなごに花びらながれ
をみなごしめやかに語らひあゆみ
うららかの跫音(あしおと)空にながれ
をりふしに瞳をあげて
翳りなきみ寺の春をすぎゆくなり
み寺の甍みどりにうるほひ
廂々に
風鐸のすがたしづかなれば
ひとりなる
わが身の影をあゆまする甃(いし)のうへ

                (三好達治)   

折口信夫 □診斷・日本人 4

折口信夫診斷・日本人
 折口信夫の生家は古く續ける生藥屋なりき。信夫誕生當時の家族は、兩親の他、曾祖母、祖母、二人の母方の叔母、姉、三人の兄にて、後に弟二人生まる。

「祖父は、飛鳥ニ坐ス神社の神官の子なりしが、折口家の養子となり、醫を本業とし、舊來の家業を兼ぬるも、差別なく部落民の治療に當り、その徳人より慕はれれたり。

父は壻養子として折口家に入り、祖父の跡を繼げるも、氣むつかしく、荒々しき氣性の人にて、晩年には患者を診ること少なかりし。

母はいはゆるお孃さん育ちにて、わがままなる人なりしが、父には痛々しく思はるゝ程よく仕へ、父の代診をつとむるなど、獨身なりし叔母二人と家業を切り廻したり。」(『母と子』) 恐らく信夫の父は、母系家族に對する一種の反逆兒にてはなからんかと想像せらる。

 信夫が幼年時代の資料極めて乏しけれども、『古代感愛集』に收められたる「幼き春」「乞丐(コツガイ)相」「追悲荒年歌」などの詩の中にうたはれし、幻想の織り込まれたる幼時の囘想を讀まんか、そが傷ましさ、想像を絶するものあり。「わが父にわれは厭はえ、我が母は我を(メグ)まず、兄姉と心を別きて、いとけなき我を(オフ)
ぬ」(「幼き春」)「父のみの父はいまさず、ははそばの母ぞかなしき。はらからの我と我が姉、日に夜に(コロ)ばえにけり」(「追悲荒年歌」)

斯くのごとき彼の不幸なる幼年時代を決定づけたるものは、幼時の一時を里子に出されたることなり。

里子に出されたる年齡、期間の詳細は明らかならざるも、このために幼年時代の信夫は母との對象關係斷ち切られたれば、我は見捨てられたりと感じ、母の影は遠くのもの、覺束なきものとなりたりと推測せらる。

 一方、父との對象關係も十分なるものにてはなく、當時「年と共に氣むつかしくなり、家人とも樂しげに話をかはすこともなく、母と顏をあはすことも嫌ひたり」(『母と子』) 父によりて彼の孤獨感の瘉されるべきすべもなかりし。

かへりて父は母を信夫より遠ざくるていの人物なれば、部落民を診察することを拒否し、祖父の里との交際を斷つといふがごとき父の粗暴なる行爲は、幼き信夫の心に消しさりがたき父への反感、憎惡を生み、彼の出生前に死亡したる祖父への止みがたきあこがれと幻想的なる同一視おこり、祖父を父批判のよりどころとする結果となりたるがごとし。

父に對する憎しみの激しきことは『近代悲傷集』の「すさのを」の詩篇からも容易にうかがひ知らる。

 幼年時代の信夫は、母代りの叔母えい、姉あいによりて育てられたるならん。殊に八歳年上の姉とは、互ひに孤獨なる魂を温め合ふかの如くに親密にて、近親相姦的關係に近かりしかと想像せらるる節さへ見ゆる。「わが御姉(ミアネ)、我を助けて、かき出でよ、汝が胸乳(ムナヂ)、あはれわれ、死ぬばかり、いと戀し、汝が生肌(イキハダ)」(「すさのを」)

晩年の『死者の書』におきても主人公大津皇子は、その刑死を萬葉集の中にてもつとも哀切なる同母姉大伯皇女への追慕によりて鎭魂せられたる皇子なり。折口の中將姫を登場させたるは韜晦にてはなからむか。

かくのごとき幼時の異常なる關係より自己の男性性との葛藤をおこし、去勢恐怖、さらには姉との同一化おこり、その結果異性愛が封じられ、これが後年の彼の女性恐怖、同性愛的傾向の發展につながるものと精神分析的に解釋釋すること可能なり。


 いづれにせよ幼年時代の信夫は、兩親よりいはば遺棄され、しかもそれを被虐的に自己に關係づけたれば、兩親との對象關係正常に發展せず、ために生に對する信頼感が弱く、生命否定的となり、男性としての十分なる性的同一性を確立することのできなかりしことは疑ひなき事實なればこれが彼の分裂氣質的人格の形成、恐怖症の發展を促し、同時に信夫を同性愛に導く要因となりたることは確實なり。

折口信夫 □診斷・日本人 3

折口信夫診斷・日本人
 
 晩年の信夫と起居を共にせる加藤守雄の『わが師折口信夫』、岡野弘彦の『折口信夫の晩年』を讀むに、信夫の人柄、日常生活には、われわれ精神科醫が興味そそらせらるる部分、少なからず。

 加藤は信夫の人間的印象につき次のごとく記す。

「一オクターブ高き聲、なで肩にて丸味ある體つき、いんぎんなる物腰、自己愛的、女性的なり」「氣性はげしく我が儘なる性格、惡意ある批評や自分を傷つけむとせる言論には痛烈に反撥、反應過敏にて被害者意識つよく、先生が怒りは、不當にいためつけられたる自我を囘復せむがための闘ひ」「電話のベルにて過敏に怖る。相手の正體のわかるまで安心できず」。

これらの記述より推察しうる信夫は、過敏、自己愛的、人間不信的、被害的傾向を有する分裂氣質に屬する人と言ひえむ。

 彼の日常生活にはかなりの奇行目につく。

その第一は極度に潔癖なることにて、書庫や部屋の埃を嫌ひ、他人の手が觸れたる襖、障子の把手は着物の袖にて摑み、電車の吊皮を持つときは手袋やハンチングを使ふなど直接自分の手にては觸れず(岡野)、フライパンをクレオソートにて消毒し、手に觸るるものはアルコール綿にて拭く(加藤)など、不潔恐怖の症状とも見られむ。

 第二は女性恐怖にて、恐らく此が第一の不潔恐怖の原型と考へ得るものにて、女性を不潔視し、身邊にはほとんど女性を近づけず、食事は女性に作らせず、妻帶者の弟子の入りたる風呂には入らず、電車、バスの中にて女性の髮の毛觸るれば、すさまじき嫌惡感を示せり(岡野)。信夫の恐怖覺えざる女性は、親族の他はおそらく身邊にありし老婢、あるいは「神の嫁」としての巫女的なる役割にとどまりをりたる女性ならむ。

 第三は饑餓恐怖とも稱せらるゝ一種の貯藏癖にて、戰爭末期より戰後にかけての時期、護符の如くに硼砂入りの四斗の米を貯へをりたり。他人より贈られたる果物などは腐敗せるものも捨てずにとりおきて、奇妙なる果實酒を作るなど致したり(岡野)

 第四は刺戟物に對する極端なる嗜好にて、三十種にも及ぶ茶を常備し、ジンジャーエール、コーヒーを好みたり。齒磨きは薄荷、樟腦、クレゾールなどを加へたる自家製のものを用ゐ、ロートエキスの錠劑を愛用し、息の詰らむばかりのユーカリ油をマスクに垂らすこともありたり。

子供の頃には樟腦を齧りしことありたると言ふ。その極點に當れるはコカインに對する嗜癖にて、大正末期より昭和初年にかけてはかなり濫用し、その結果晩年にはほとんど嗅覺失はれたり(岡野)因に彼が旅行の際には愛弟子の誰かを同行したる他、必ず數種の茶、胃腸藥、アルコール綿を携行したり(岡野)

 信夫の住居には「生活に對する熱意と秩序の微妙さ嚴しさ、隅々にまで行き屆きをり」、弟子達の立ち入れる領域、家婢の立ち入れる領域は竣別されゐたり。

便所にても先生用、家人用、客人用の三種あり、自分の肌着を他人に洗はすることなく、就寢後は寢室に他人を絶對に立ち入らせたることなし。彼には「痛烈に嚴しき孤獨なる世界と、いさぎよき程の自愛の世界ありき」(岡野)

かくの如き呪術的とも言へる手のこみたるやり方にて、不潔より身を守る庇護的にして、固有なる生活空間を辛うじて創り出したる生活様式は、不潔恐怖症の人間のそれとしての特徴を十分に示せるものと見得。

 弟子達の記述の中にて最も精彩を放てるのはすさまじきばかりの、師弟關係に關する部分なり。

師としての信夫には苛烈、呪縛的なる感染力ありて、弟子たちにとり先生の言葉はすべて啓示にして、先生の行爲はすべて典型と感ぜられ、先生と一緒なれば一種の痲痺状態に陷りたり。

信夫は弟子の生活のすべてを嚴しく律せざれば安心でき得ず、己のものと弟子のものとの區別つかざりき。

弟子は先生以外との交際を斷ち切られ、殊に異性に對する禁欲生活を強ひられ、心のゆるむ暇なかりき。先生は口移しにて弟子の講義を準備し、弟子の講義の代講を行ふ。

先生は自分の好みに從ひて弟子の髮の毛を五分刈りにし、近視ならねど眼鏡をかけさす。そして時には弟子(加藤)同性愛的行爲を求めたりせり。

しかれども、他の資料より推測するに、彼は性欲に對し嚴しき禁欲的なる自己抑制を課しをり、ゆゑに彼が同性愛は精神的なるものにて、肉體的なる行爲を求めたるは、おそらく晩年になりて自己抑制のゆるみたる時期のみと推測せらる。

 柳田國男や土岐善麿の、「折口君の所に長くゐると牝鷄になる」(柳田)とか、「折口さんのごとき天才に着いてゐたら君達の個性はなくなる」(土岐)と語りたるは、この間の事情を指しをるものなり。


斯くのごとく弟子に對して自他の區別を許さず、弟子を全的に一方的に支配し、自己の生活律により律せむとする態度は、分裂病者の子供に對する兩親の態度に類似しをりと言ひ得む。

折口信夫 □診斷・日本人 2

折口信夫診斷・日本人
 
 折口信夫は明治二十年、大阪に生まる。父は婿養子にて醫を本業とし、さらに家業の生薬屋を兼ぬ。

幼時一時大和小泉に里子に出され、木津小學校を經て明治三十二年に大阪府立第五中學に入學せり。明治三十五年五月(十六歳)父死亡す。

明治三十七年、卒業試驗に落ち、その前後に數囘の自殺企圖あり。

されど翌三十八年(十九歳)には同校を卒業し得たれど、醫科を學ばせむとする家人の意を斥け、國學院大學に入學、同四十三年、拔群の成績にて卒業するや、釋迢空の號を初めて用ゐる

同四十四年、大阪府立今宮中學の教員となる。翌年、生徒伊勢清志らと志摩、熊野に旅行す。大正二年(二十六歳)、この年創刊せられたる柳田國男の「郷土研究」に投稿。翌年、職を辭して上京、本郷の下宿昌平館にて中學の教へ子十人と共同生活を始むるも、間もなく經濟的に破綻して一時神經衰弱となる

翌四年、生徒の一人鈴木金太郎の下宿に身を寄せ、そのまま居つく。
彼とはその後二十一年間(昭和九年まで)同居することとなりたり。
 
 同年、柳田國男、島木赤彦に會ひたることから、「アララギ」に近づく。翌年、萬葉集口語譯完成。翌六年、私立郁文舘中學教員、「アララギ」同人となる。

夏、元の生徒伊勢を追ひ九州に旅行、無斷缺勤一ケ月のため馘となる。大正八年(三十三歳)、國學院大學臨時代理講師となる。西大久保に轉居。同十年夏、沖繩旅行、年末「アララギ」から遠ざかる。

翌年、國學院大學教授となる。年末、谷中に轉居、翌年、慶應義塾大學講師となる。大正十四年、處女歌集『海山のあひだ』出版。短歌結社「とりふね」を創り、生涯續くることとなる。昭和三年(四十二歳)慶大教授となり、大井出石に轉居、以後終生この地を離れず。この地にて藤井春洋(はるみ)と昭和十八年まで同居す。
 
 翌年『古代研究』を出版せることにより、折口學の内容を組織的、系統的に提示せることとなる。この頃コカインを濫用しながら、不眠不休にて仕事に勵む。昭和五年第二歌集『春のことぶれ』出版。

同七年『古代研究』により文學博士の學位授與せらるると共に、歌壇における地位も確立す。同十四年、『死者の書』上梓、翌年、國學院大學に民俗學講座を新設す

同十八年、藤井春洋應召出征し、加藤守雄との同居となる。翌年、春洋硫黄島へ移動、信夫は春洋を應召のまま養子に入籍せり。加藤名古屋へ逃走す。二十年、春洋硫黄島にて戰死。

二十一年、『近代悲傷集』出版。老婢矢野あや子、折口信夫の死に至るまで同居す。翌年、『古代感愛集』『日本文學發生序説』出版。岡野弘彦、昭和二十八年の師の死まで同居することとなる。二十三年、『古代感愛集』により藝術院賞受賞。春洋の墓石をえらび、墓碑銘を書く。


昭和二十七年、輕度の腦出血發作おこり、翌年(六十七歳)、胃癌のために死去す。以上が彼の傳記的事實の概要なり。

折口信夫 □診斷・日本人 1

注:以下の論文はインターネットで公開されていたもののコピペ。文章の中の文字の色は私が関心ある箇所のため色付けした。
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精神科医:いひだ しん 飯田眞
折口信夫診斷・日本人
 折口信夫は、過去半世紀の間に尤も個性的なる日本人の一人にて、釋超空と號したる、昭和歌壇の代表的なる歌人と言へると共に、民俗學、國文學の領域においても折口學と呼ばるる極めて獨創的なる學問體系を確立したる人物として知らる。

 本小論にては、手許に散在する幾つかの作品及び傳記的資料を參照しつつ精神病理學的視點より折口の人間像を素描せむとす。

 折口が内的世界を構成する重要なる部分は、詩歌、國學(民俗學、國文學)なれど、これらは獨立しては存在せず、互ひに關聯しあひて一つの神秘的なる結晶體を形成するがごとし。そのために折口の全體像を解明するにあたりては、折口が内的世界の構造的連關を探ることに大いなる手がかりが與へられむ。

 折口は短歌滅亡論を書きはしたれども短歌を捨つることなく、生涯にわたりて人間の孤獨、死、愛憎、悲傷をうたひつづけたり

折口にとりて詩歌とは、「自己の生命をみつむる詩人の感得」を表現する、生の基底音を奏づるものにて、内面の激せる情念を癒す鎭魂歌に他ならざりし。

折口が詩歌の本質は「優雅さ」「細み」にて、アララギのうたふ「ますらをぶり」に對する「たをやめぶり」なりと言はるるごとく、折口の自己愛より發する女性的なる世界にあらむ。

 一方、折口は從來の實證主義的なる國文學には激しく反逆し、「新しき気概の學」としての國學を模索しつづ.けたり。

「資料と實感と推感とが交錯して生まれくる論理をたどる」といふ獨自なる民俗學の方法によりて、古代文學究明の前提とすべき古代人の生活を再現し、古事記を讀み解くために古事記傳を書きたる本居宣長以來の國學の傳統を復興せり。折口にとりて國學とは、いはば自己の存立の基盤を支ふるものにて、強く激しき男性的なる世界なりき。

 また詩歌が日常的、意識的、現在的なる晝の世界に屬し、比較的直截に己の心情を吐露せるものといへるに對し、民俗學は無意識的、蒼古的なる夜の世界に屬し、折口が精神の深層の投影されたるごとくに見ゆ。

折口はコカインの助けを藉りつつ、詩人のもつ直觀力、幻視力を高め、一種の神がかりの寔態となり、民俗學的資料を媒介として己が魂を古代人の魂と自由に交感させ、自身が古代人になりきることによりて古代人の生活を再體驗し、獨自なる日本の古代像を創造せり。

作品の幾つかを讀まば(例へば『妣が國へ、常世へ』『貴種流離譚』など)折口が生み出したる日本の原像が、いかに強く折口の個性の刻印をうけ、折口の内面の幻想と深くかかはりゐるをみるべし。

師柳田国男の民俗學が合理的、歸納的、實證的であるのに對し、折口の民俗學は直觀的、實感的、非合理的にて實證性なしといはるる所以はここにあり。

 折口は社會的には學者たり、教師たり、また歌人たり。かかる折口にとり生の姿勢の確立したるは、慶大教授となり、大井出石に居を構へたる昭和三年(四十二才)頃にて、以後、終生、慶應大學と國學院大學にて國文學、民俗學を講ずると同時に、短歌結社「とりふね」を主催せり。


周圍に常に折口の人間的魅力に呪縛されたる愛弟子達を擁し、閉鎖的なる祕教團の教祖の如く彼らに無數ともいへる嚴しき戒律を課して全人的に訓育したり。折口は生涯獨身を貫きしが、ほとんど常に愛弟子の一人と起居を共にしゐたり。

(いひだ しん 精神科醫)

2014年8月16日土曜日

68 老いぬれば・・・

『老いぬれば心あわたゞしと言ふ言(こと)の、
            こころ深きに、我はなげきぬ』
***
『心あわたゞし』とはどういうことだろう。
それは人それぞれによって違うだろう。

私は? それをこんなところに書いても仕方がない。
ただ、それは擦り傷が沁み入るように徐々に深くなっていく。
それは『こころ深』いところへと侵食していくのだ。
作者は、どこで、なげいているのだろう。
どこ? それは誰も知らないし知りようがない。

To-morrow, and to-morrow,and to-morrow,
Creeps in this petty pace from day to day

To the last syllable of recorded time ・・・

67 木(みやまぎ)の冬のしげりの深き山・・・

(みやまぎ)の冬のしげりの深き山。
 たゞひと木ある花の かそけさ。 (釋超空)
***
今年は既に一ヶ月もない。(注:本記事は昨年暮れ書いたもの)
月日の流れを今年ほど速く感じた年はなかった。

春には花が咲いたことさえ知らずに過ごした。

夏は突然やってきて我が身を容赦なく焦がし、
そして、いつの間にか去ったのだが、
秋が来たことに私には気付かなかった。

窓から外を眺めたとき木々から葉が落ちていることを知り、
秋が去ったことを知ったのだった。

そして冬がきた。
まだ雪は降らないが、その予兆は既にある。

私の家の庭の木々には花はない。
窓から見える遠い山々には、花を静かに咲かして木があるらしい。

次に控えている年は、さらに速く過ぎていくのだろうか。
そのような気もする。

次ぎに控えている年は、せめて春には花を感じたいものだ。

一枚の枯葉が落ちていた。

綺麗な色をしていた。

その葉を傍(そば)の石の上に、そっと置いた。

誰のために? 

それは、かの人のために。
そして我が魂のために。


66 わが庭のやつでの広葉・・・

わが庭のやつでの広葉 ゆすりたち。
      さやかに こゝを風の過ぎゆく 』
***
父が病死し、その後、母も病死して、もう何年たつのだろう。
わたしは父の居ない母宅に六年寝泊りした。
その母宅には、"やつで"が植えてあった。丈夫な植物で何の手入れをしなくても、つやつやした葉を茂らしていた。
母宅には、いろいろな木々が植えてあった。
母の死後、幸いにも母宅を購入してくれる人が現れた。
しかし其の人は家ではなく土地が欲しかった。
その土地を売却後、しばらく私は其処を訪れなかった。
何年か後、其処をたまたま通ったら、家は無く、庭にあった木々も全て処分されていた。車の駐車用として平地にされていた。
***
あの"やつで"も無くなっていた。
わたしは、亡くなるということは、こういうことだなと思った。


65 いにしへや・・・

当地では、ここ数日、鬱陶しい日々が続いている。
私は、ふと、釋超空の詩集を読みたくなった。
以下は私の好きな詩の一つである。
***
  いにしへや、
かゝる山路に 行きかねて、
 寝にけむ人は
ころされにけり

 雨霧のふか山なかに
息づきて
寝るすべなさを
 言ひにけらしも

山がはの澱みの 水(み)の面(おもて)
 さ青(を)なるに
死にの いまはの
  唇(くち) 触りにけん

***
私は此の詩の、特に最後の連に、釋超空の特異性を強く感じる。
人によっては芥川龍之介の短編小説を連想するかも知れない。
此の人は芥川よりも翳が濃く、罔(くら)い。と私は思う。


 

64 山深く・・・

『山深く こもりて響き風の音。夜の久しさを堪えなんと思ふ。』
***
私は毎朝、散歩をしている。以前より私は、めっきり元気がなくなって歩く歩数もだいぶ減ってしまった。ここ10年程其の散歩を続けているのだが、ときどき出会う犬が三匹居た。その一匹は飼い犬らしいが、いつも道をウロウロと、ほっつき歩いていた。車が通る道なので危ないなと思いつつ私は其の犬を横目に散歩を続けた。人懐こそうな愛嬌のある顔の犬であった。
二匹目の犬は、飼い主のお嬢さんらしき人が其の犬にリードをつけて、私の散歩の行先である公園の周りを、いつも、ゆっくりと其の犬と散歩していた。其の犬は後ろ左脚が少し不自由で (おそらく生まれつきの軽い障害だろうが) ビッコをしながら歩いていた。しかし其の犬は其の散歩が嬉しそうであった。私は此のお嬢さんは心優しい人に違いないと思いつつ、出会ったときは私は黙って軽い会釈したものだ。
これらの二匹の犬は柴犬だが、セントバーナードを連れた50歳代と思われる人とも、よく出会った。この犬は最初出会った頃から、かなりの成犬だったが、ここ数年その老衰ぶりが目につくようになっていた。 私も20年近く犬と過ごした経験があるので、犬が如何にして老いていくかを知っている。このセントバーナードも恐らく幼少の頃から可愛がられて育ったのだろう。しかし今や老衰して歩くのも、しんどそうであったが、この犬を連れていた人は、この犬の歩調に合わせていた。其の人は気長に犬が歩きだすのを待っていた。そのようなとき、其の犬の若き頃の跳ね回る元気の姿を思いだしたりしていたのだろう。私がそうであったように。
***
ここ数か月、これらの三匹の犬の姿を私は全く見かけなくなった。
いずれも、通りすがりの名前も知らぬ犬たちばかりである。
私は、いちまつの寂しさを感じざるを得ない。

                        




63 山びとの・・・

『山びとの 歳木(としぎ)()りつむ音ならし。
      夕日となれる庭に かそけき  』

『歳木(としぎ)』とはなんだろう。ネットで調べてみた。

新年の燃料として、暮れのうちに用意したたきぎ。
戸口や門松のそばなどに置き、年神に供える木。節木(せちぎ)。若木。幸い木。

とある。今年は既に2月下旬になろうとしている。もう季節はずれの歌になっている。
月と言えば、一月は睦月(むつき)、二月は如月(きさらぎ)、三月は・・・

大学受験時代に旧月を以下のように暗記したものだった。
むきやうさみふはなかしし

旧月名の最初の文字を並べてものだが、半世紀以上もたった今も覚えているのだから、暗記効果は抜群の我が傑作だ。他にもある化学のイオン化傾向順。いわく
かぁ、かる、なと、まぐ、ある、あえ、えふ、い・・・
Ka,Ca,Na,Mg,Al,Zn,Fe,Ni・・・
これも未だに覚えている。
***
閑話休題
作者は山里の近くの家の庭に佇んでいるらしい。夕方である。
遠くから木を切る音が聞こえてくる。聞こえてくるのはそれだけだ。
それを何となく聞くともなく聞いている。
おそらく作者の心の中に蠢(うごめ)くものはなにもない。
ただ、ぼんやりとした空虚感のみが漂っているのかも知れない。
この空虚感は換言すれば諦観に似たもののようだ。

私も作者のように山里近くの庭で遠くの山の音をぼんやりと聞いていたい。

62 鳥のなく山を・・・

『鳥のなく山を おり来てたそがれぬ。
   つひに一つの その鳥のこゑ 』
***
作者は今朝も宿主の人に別れの挨拶をして山に入った。

ひとすじの道が、どこまでも続いている山だ。

いくつの峠を越してきただろうか。

もう黄昏(たそがれ)てきて山の向こうは、もう翳(かげ)っていて暮色とは、あのような光の翳りを言うのだろうか。

結局、今日も山では人には会わなかった。

ただ、姿は見えないが遠くから鳥の鳴き声が時折する。

すると、突然、一匹の鳥が作者の肩過ごしに飛んで行った。鋭い声を発して・・・

***
私は神を信じたい。いや、これは正確に言い方ではない。


眠られない夜、私の小さなひ弱な魂に寄り添って、そっと手をさしのべてくれるような「大いなるもの」が、私はとても欲しい。

61 直面(ひたおもて)に・・・

『 直面(ひたおもて)に たゝひ満ちたる暗き水。
        思ひ堪へなん。 ひとりなる心に 』
***
私の本では、このうたの後のほうに以下のうたが掲載されている。

『 暗闇の 雲のうごきの静かなる
        水のおもてを堪へて見にけり  』

このうたの感想は既に書いた(11)が、いったい作者は何に堪えようとしているのだろうか。ともに『水』が表れている。『暗』も表れている。そして『堪へ』も。

この共通の言葉が示しているように、作者は、ある『なにごと』かに堪えている。 それはなんだろう。

短歌のド素人の私が、恥をもかえりみず、このブログを始めて何ヶ月過()つだろうか。私の見当はずれな『感想』に失笑されたかたも多いだろう。

結局、私は、なんのために、このブログを書き始めたのだろう。

それは、詩『きずつけづあれ』が発端だった。

そして、この詩の最後は『わが心 きづつけずあれ』で終わっている。

***

当時の私は20歳前の若造だったが、思ったものだ。

この奇妙な名前の人の心は、一体、何に『きづつけずあれ』と願っているのだろうか、と。若かった 私は、それが気になったのだった。

今になってみると僅かではあるが、それが分かったような気がする。

やはりキーは『供養塔』にあった。全ては、このうたに凝縮されているのだ。

釋超空の『堪えなんとする鎮痛な心情・孤独』は、やはり『供養塔』で言い尽くされているのだ。

(私はその理由を言葉で説明するのは大変難しい。短歌って、もしかしたら、そういうものかも知れない。
万言を使っても己の鎮痛な心情を表せないものの表現手段の一つが短歌かも知れない。)

ここで、やはり『供養塔』を再び引用しよう。
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『 人も 馬も 道ゆきつかれ死にゝけり。旅寝かさなるほどの かそけさ 』
                                   
『 道に死ぬる馬は、仏となりにけり。行くとどまらむ旅ならなくに 』    
                                   
『 邑(むら)山の松の木()むらに、日はあたり ひそけきかもよ。旅人の墓 』
                                   
『 ひそかなる心をもりて、をはりけむ。命のきはに、言うこともなく 』  
                                     
『 ゆきつきて 道にたふるゝ生き物のかそけき墓は、草つゝみたり 』
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そして、釋超空を私が始めて詩『きずつけずあれ』は、結局、釋超空自身への鎮魂歌だったのだと、私はやっと気づいた。

この詩も最後に再び引用しよう。
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 わが為は 墓もつくらじ-。
 然れども 亡き後(あと)なれば、
  すべもなし。ひとのまにまに-

   かそかに ただ ひそかにあれ

  生ける時さびしかりければ、
  若し 然(しか)あらば、
  よき一族(ひとぞう)の 遠びとの葬(はふ)り処()近く-。 

  そのほどの暫しは、
  村びとも知りて、見過ごし、
 やがて其()も 風吹く日々に
 沙(すな)山の沙もてかくし
 あともなく なりなんさまに-。

  かくしこそ-
  わが心 しずかにあらむ-。

 わが心 きずつけずあれ
 

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60 目のまへに・・・

『 目のまへに、ゆるゝ一木のまだ見えて、
    このゆふぐれの 山のしづけさ 』
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結局、この世界なんだな私が惹かれるは。

結局、人の心は、その人しか分からない。

他の人の心の中を土足で入るようなことは、もう止めよう。

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想像しよう。

作者は広い野原に座っている。

一本の大きな樹が未だ遠くに見える。

風もないのに揺れているように見える。ゆったりと。

あたりは透明なカーテンが重なっていくように次第に暮れていく。


それにしても、山々のなんという静謐さだろう・・・

59 とまりゆく音のまどほさ・・・

『とまりゆく音のまどほさ。目に見えぬ時計のおもてに、ひた向ひに居り』
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私は古語の知識は皆無だ。

たしか高校生の頃『古語辞典』はもっていたと思うが、はるか遠い昔に捨ててしまった。

掲題の歌の『まどほさ』の意味が私は分からなかった。
古語かも知れないと思いネット検索したが分からなかった。
そこでネットのQ/Aサイトで尋ねてみた。

そしたら直ぐ回答がきた。

『間遠さではないでしょうか。遠くに聞こえるさま。』という回答だった。

なるほど。 それで掲題のうたの私の独断的感想ができる。

その回答に対するお礼は勿論直ぐresした。

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そもそも時間とはなんだろう。

偉い哲学者・科学者なら一言あるのだろうが、私みたいな者(即ち一般庶民)にとっては、時間とは、なんとなく不断に流れゆく何か或るモノだ、ぐらいしか多分実感していないだろうと思う。

特にニュートン力学が、我々の疑うべからざる常識となっている今日、時間とは要するに『目に見えぬ時計』に他ならない、と言えるのではないか。
そういう時間感覚で、現実性生活にはなんの不都合も生じていないのだから。

厳密に言えば、実際は不都合であろうが、それは前の記事にも書いた科学専門家のみにとってであり、非専門家たる我々庶民には、とりあえず何の不都合も生じていない(と私は思う)

例えばアインシュタインの相対論の『時間』概念等は、私も含めて、現実生活者としては、無縁な概念でしかないのみならず、現実の生活感覚からは全く遠い世界の知的好奇心の対象でしかないのが実情だろうと思う。
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まぁ、そんな話は余談として掲題のうたの迷想をしてみよう。

作者は、ある奇妙な時間感覚に傾斜している。

作者の意識は、特に聴覚は、ある幻覚に陥っている。

作者は、作者の実生活世界から、どこかへと引きずりこまれている。

<<貴方は全身麻酔をした経験はあるだろうか?  私はある。
ある病気の手術をしたとき、私は全身麻酔をさせられた。

麻酔医が私の鼻・口にマスクをして、さぁ麻酔しますよ、と言うDr.の声を聞いた直後、私の意識は混濁というか眠りというか、ともかく意識がなくなっていった。おそらく作者は一種の麻酔状態だと思われる。>>

作者の時間感覚は、いつもの時計感覚ではなくなっている。

速いというか遅いというか、時間の流れは、通常の時間の流れとは奇妙にずれている。

作者の時間感覚次元は、通常とは全く違った異次元へと移っている。

作者は、その『目に見えぬ、その錯乱した奇妙な時間』を、『ひたむきに』つまり、ある種の脅迫観念をもって、あるいは陶酔状態で、凝視している・・・

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さらに迷想すれば、このうたは、コカインによる幻覚のうたかも知れない。

58 病む母の心・・・

『 病む母の心 おろかになりぬらし。
  わが名を呼べり。 幼名によび 』
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これは釋超空のうたの独断的感想だから、釋超空の個人的な境遇などは私はあまり関心はないのだが、掲題のうたには個人的に少し思うところがある。

掲題のうたから予想すると釋超空の母は、いわゆる認知症を患っていたらしい。

精神科医・飯田眞の例の小論を見ても、それらしき記述は見当たらない。

釋超空の母は上記小論によれば、

『母はいはゆるお孃さん育ちにて、わがままなる人なりしが、父には痛々しく思はるゝ程よく仕へ、父の代診をつとむるなど、獨身なりし叔母二人と家業を切り廻したり。』

とあり、ある時期までは認知症などとは無縁な健康な精神状態だったようである。

実は、私の母はアルツハイマー型認知症を患っていた。
しかし、私を『幼名によ』ぶほどの症状ではなかったが自活は無理な状態ではあった。

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何ヶ月前だったか、『ラジオ深夜便』というラジオ番組で、三浦朱門が話をしていた。人の老いについての話題だった。そこで彼はこんなことを言っていた。

『人は歳をとれば肉体的に衰弱していくのは当然である。その場合、肉体的には衰弱していながら精神は何一つの疾患もなく健康だということは、ある意味で不幸なことだ。なぜなら肉体の衰弱を自身の心(精神)が冷静に見つめ得るということは残酷なことでもあるからだ。

肉体が衰弱していくのが必然ならば、それに相応して心(精神)も衰弱していくのが理想かも知れない。』

そういう趣旨の発言だった。

私は、それは一理ある見方だと思う。というのは、私なりの実体験があるからだ。

実は、私の母が痴呆症のとき、父が脳梗塞で倒れ半身不随となり入院生活を余儀なくされた。脳梗塞というのは恐ろしい病気で、一瞬にして人をほとんど廃人化してしまう。

私の父は6年間の入院生活後、亡くなったのだが、その事実を私の母に告げたとき、母は、『あ、そう。かわいそうだね。』と言ったきり、今までみていたテレビを何の表情を変えず観続けていた。

母は父の死亡という深刻で悲しい事実を、痴呆という症状が、健康な精神()であれば感ぜざるを得ない痛烈な痛みと悲しみを遮断したと言える。

このことは、母自身にとっても、私を含めた近親者にとっても、救いであったと思う。


痛烈に嘆き悲しんでも、どうしようもない現実から、事実上、母を解放してくれたのだから。嘆き悲しむ母の姿を、私たち近親者は見ずに済んだのだから。

57 おもしろく・・・

『 おもしろく 世にあらなむなど思へども
     人厭ふさがは つひにさびしも 』
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『智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角この世は住みにくい。』

ご存知、『草枕』の冒頭の一節である。

各人の事情の差・程度の差はあれ、『兎角この世は住みにくい』のは誰もが感じていることではあるまいか。

私は最近これを嫌というほど感じされたものであった。

あるネット社会においてである。

私の『人厭ふさが』は更に強くなってしまった。

ネット社会だから、PCのワン・クリックで、その社会から遁走でき、全てをリセットできるということは実に爽快な気分であった。

この世が実社会だと、そうは簡単にはいかない。

この世の実社会で、全てをリセットさせ、清々とした気分に浸ることが、もし出来るなら・・・ なんと良い世界だと、私は、つくづく思うこの頃である。

もし、それが可能だとしたら、つまり、ワン・クリックで、この世から何の道徳的制約もなくオサラバできるような社会システムになっていたら、私には、そのような世は薔薇色に見える。

しかし、実際のこの世は、「生きる」ということには全ての価値が付与されてはいるが、「生きない」ということに対しては、ほとんど零に近い例外を除けば、一切の価値が付与されていない。

そのことは、私が、この世で、不条理と思っているものの一つである。


「生きる」ということに価値的意味があるならば、「生きない」ことにも価値的意味があるはずだ。

56 過ぐる日は・・・

『 過ぐる日は はるけきかもと 言ひしかど、
   人は すなわち はるけくなりつ 』
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私の家の近くに運動公園がある。その公園の入り口近くに、小さなツツジの群れが、その公園を囲むように植えられている。

もう何十年前になるだろうか、その頃は私が飼っていた犬も健在で、ほぼ毎日のように私は犬を連れてその公園へ散歩に出かけたものだった。

その公園の周りのツツジの群れの中に小さな空洞が出来ている場所があった。それは少しばかり地面がツツジで覆われるような形状の空洞であった。

ある日、いつものように犬と其処を通るとき、その空洞に、二匹の子猫が寄り添うように居た。二匹とも、全身真っ白な子猫で、同じ親から生まれた捨て猫であることは明らかだった。大きさから見ると生後一ヶ月ほどらしかった。

私は、それまで似たような捨て猫を何匹も飼ってきていて、当時も既に家には二匹の猫が同居していた。

さて、どうしたものかと私は悩んだ。
その公園には比較的多くの人が、いつも出入りしている。この空洞も人目につきやすい。

私がこの子猫たちを見捨てても、誰か動物好きな親切な人が見つけて育ててくれるだろうと私は割り切った。そして知らぬふりしてその空洞を通り過ぎた。

今や、あれから何十年も過ぎた。犬ももう亡くなっていない。

そして私だけは今も朝のウオーキングでその公園へ行く。
その公園の周りのツツジも当時のままだ。小さな空洞もそのまま在る。

私はその、何も無い空洞を通るとき、あの子猫たちはどうなっただろうかと思いやらずにはいられない・・・否、思いだすまいとしているのだが。
私もこの子猫たちを見捨てたのだから。


気障ったらしく甘ったれて言えば、掲題のうたは、私には、この子猫たちへの挽歌といえよう。この子猫たちが幸福な生をまっとうしたことを願いつつ。