『むぎうらし ひとつ鳴き居し声たえて、ふたたびは鳴かず。山の寂けさ』
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私が持っている本では、このうたに下記の(作者による?)説明が補足されている。
「麦うらしは、早蝉。鳴いて、麦にみを入れる、と言ふ考えからの名」
作者はその蝉の声をどこかの山里の宿で聞いたのだろうか。
その蝉がひとつ鳴いて、それきり何も聞こえてこない。
ただ感ずるのは山の寂けさだけ。
静けさではなく寂けさであるところが作者の心中が透けて見える。
「山の寂けさ」は単なる物理的静寂ではない。
それは作者の心の淋しさへと誘導されていく「心情」ではないか。
この「寂けさ」は「淋しさ」と微妙に表裏をなす作者の心情だと思われる。
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「淋」という字。
漢字は面白い。
「さんずい」に「林」。
静かな湖にひっそりと立っている木々。
そういう状況が「淋しい」という状態。
作者の「寂けさ」は「淋しさ」であり、その淋しさは、例えれば、ひっそり在る湖の周りの木々のような「淋しさ」・・・。
たぶん「寂けさ」は、そのような「淋しさ」でもあるのだろう。
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山というものは、神秘的というか原初的というか、そういう根源的な存在だ。
作者はおそらく「山の寂けさ」さから、ある根源的な静寂さをも感じていたに違いない。
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松尾芭蕉の有名な俳句。 「古池や 蛙とびこむ 水の音」
釋超空のこのうたと芭蕉のこの俳句は、おそらく、根底において同意だろう。